ジェフの変革期と青木孝太

 青木孝太の現役引退が、自身のブログと思わしきサイトで発表になりました。
 このブログはこれが初投稿で、孝太のマネジメント会社などからもリンクされていなかったため、真偽が疑われていました。
 しかし、後日ゲキサカSOCCERKINGでも取り上げられたため、信憑性は高いのではないかと思います。
 この2つの記事のソースもこのブログとなっていますが、さすがに未確認ということはないと思いますし…。


 孝太の引退に関しては、数か月前からちらほらと噂を耳にしていたので、驚きはありませんでした。
 2013年末には一度群馬から契約満了通知を受けていたものの、直後に群馬と再契約となった経緯があります。
 しかし、昨年末に本人がタイへの移籍を希望して退団したという流れでしたから、タイへの移籍がうまくいかず所属チームを失う形となってしまったのではないでしょうか。
 残念ではありますが、本人としても覚悟の上でタイ移籍を模索したのかもしれません。



 野洲高校で選手権優勝を果たした青木孝太は、06年にジェフに加入。
 07年には19試合に出場し3ゴールを上げ、今後への期待が高まっていました。
 しかし、07-08オフには選手の大量流出もあり08年序盤は主軸選手として期待されましたが13試合出場でノーゴールに終わり、09年にはリーグ戦出場なしといった状況になってしまいます。


 09年には岡山にレンタル移籍し31試合出場で6ゴールを記録すると、翌年にはJ2に降格したジェフに復帰し23試合に出場して6ゴールをあげます。
 しかし、ドワイト監督が就任した11年は22試合出場し1ゴールと再び苦しみ、翌年には甲府へレンタル移籍。
 そして、12年末にはジェフと契約満了になり、13年から群馬でプレー。
 主力選手として2年間活躍しました。



 総じてジェフでは、活躍しきれなかった印象が強いと思います。
 理由の1つとしては、周囲の期待と本人のプレースタイルとのギャップが考えられるのではないでしょうか。
 『セクシーフットボール』を掲げた野洲高校での活躍とポジションなどもあり、孝太は攻撃的なアタッカーとして期待されていたところがあったと思います。
 先輩にあたる水野の後継者として、見られていたところもあったのではないでしょうか。


 しかし、実際には足元でボールを受けてのドリブルなどにおいては、そこまで強い武器がある選手ではなかった。
 ユース代表でもSBとして起用されたように、真面目に守備をしてシンプルにパスをつなぎ、オフザボールで飛び出していくタイプの選手だったのではないかと思います。
 どちらかといえば、水野より山岸の方が近いタイプだったのではないかと思いますし、アマル監督もそこを期待していたのではないでしょうか。


 けれども、周りはより煌びやかなプレーを期待したため、ジェフ時代の後期は批判されることもとても多かった。
 私が見た11年末の練習でも、ボールを持って仕掛けずにパスを出した水野に野次が飛んでいました。
 しかし、孝太としては決して仕掛けていないわけではなかったのだと思います。
 パスを出して自分は前に飛び出し、オフザボールで仕掛けていたのですが、あまりそういった動きは評価されなかった。
 実際、群馬で主力となった孝太のプレーは泥臭く守備をしてパスをつないで飛び出していくプレースタイルだったはずです。
 ジェフで成績を伸ばした07年、11年のチームも、積極的なドリブルというよりパスサッカー志向だったことは決して偶然ではないように思います。


 ボールを持ったらどんどん仕掛け、ともかく前へ積極的に…。
 オシム監督時代の反動なのか、アマル監督への反発なのか、ミラー監督による一時的な成功による植えつけなのか。
 孝太が加入してからジェフは、前への意欲がなければ許されないというような風潮があったようにも思います。
 オシム監督も攻撃参加は重視していましたがドリブルによる強引な仕掛けは許しませんでしたし、攻めきれなければバックパスを出して作り直すというのが特徴的なサッカーでした。
 しかし、そういった考え方は当時のクラブやアマル監督への批判とミラー監督の成功などもあって、評価されない方向に進んでいったように思います。



 もう1つ孝太がジェフでうまくいかなかった理由として考えられるのは、孝太が入団してから監督が頻繁に変わったこと。
 甲府へレンタルした12年を除いたとしても、6年間で代行監督含めると8人もの監督が指揮を執っていたことになるわけですから、異様なクラブ状況であることが改めてわかります。
 監督が変わればチームの方針も変わるため、当然選手に求められるものも変わってしまう…。
 高卒でまだ土台ができていない大事な時期にチームから求められるものが頻繁に変わってしまえば、選手としての成長にも支障が出る可能性があると考えられるのではないでしょうか。


 益山などもミラー監督の下でSHとしてブレイクしかけていたところで、江尻監督に代わってSBやCBに回され苦しんだ印象があります。
 ここ数年でようやく米倉、キム、井出、大岩といった新卒選手たちが主力選手としてプレーできるようになってきましたが、それまでの長い期間ジェフはトップチームで選手を育てることが出来なかった。
 アマル監督が就任してから出場機会が増えた工藤、岡本かオシム監督時代の水野・水本以降、トップチームでの選手育成がうまくいっていなかったといえるのではないでしょうか。



 また、孝太が難しい状況にあったのは、ちょうどジェフというクラブが変革期にあったことも関係しているように思います。
 孝太が加入した06年は伊藤淳嗣田中淳也安里光司加藤韻川上典洋熊谷智哉と実に7人もの新卒選手を補強していましたが、新卒選手の加入が少ない今では考えられない状況です。
 当時は若く有望な選手を積極的に獲得し、優秀な外国籍選手に育て上げてもらおうというクラブとしての意図があったのだと思います。
 また、ベテラン選手を少数にし若い選手を多く保持する、ピラミッド型の選手構成を説明していたこともありました。
 予算がないからこそ、育成型チームとして戦おうという明確な方針があったわけです。


 しかし、06年からジェフはフクアリに完全移行。
 この年から観客動員数も飛躍的に伸び、営業収入も09年1月期まで右肩上がりで増えていきます。
 ちょうどジェフは、オシム監督の攻撃的なサッカーで世間からの注目を集めていた時期でナビスコ杯の2連覇も達成。
 06年途中にはオシム監督の日本代表就任で代表選手も一気に増え、さらに新規ファンが増えて言った印象でした。
 加えて、08年には今まで古河から出向されてきた社長がJRからに変わり、JRからのサポートも強くなっていきました。


 クラブ内部の状況が変わっていく中、07年オフには選手が大量流出。
 大幅に若返ったメンバーで08年開幕時を戦うことになりますが、成績は大きく低迷してしまいます。
 シーズン中にミラー監督が就任し、夏に大幅補強を行うことで残留に成功します。


 この成功からジェフのクラブ方針も、育てるクラブから買うクラブに変わっていった印象です。
 実際、その年のオフには若手選手を一気に放出。
 若手育成からベテラン補強の流れはJ2降格以降も変わらなかったものの、人数を揃えることしかできず買うクラブとしては中途半端でJ1復帰には至らない状況が長らく続きました。
 その状況が人数を絞ってパウリーニョペチュニク、中村など主軸選手として期待できる選手を補強する形になって、今季本当の意味で変わることができるかどうか…といったところではないでしょうか。



 クラブの状況が変わることに関しては仕方がないというか、自然な流れともいえると思います。
 経済的に裕福になりサポーターやスポンサーも増えれば、当然プレッシャーも増えてくる。
 クラブ運営の"やり方"は賛否あるとして、クラブとしての"あり方"が変わるのは仕方のないことなのだろうなぁとも思います。


 ただ、そういった状況で加入した選手にとっては、どうしても苦労を掛けてしまった印象がぬぐいきれません。
 もちろん新卒選手であろうとプロであることには変わりないわけですから、最終的には実力が全て。
 けれども、クラブとしては若い選手が落ち着いてピッチに集中できるような環境を作るためにも、安定した運営というものを築き上げてほしいところですね。
 最後になりましたが、お疲れ様でした。
 今後どのような道を進むのかはわかりませんが、明るい人生を歩んでいってほしいですね。